江口の里を訪ねる
土曜日、午前中、映画を観て、昼から大槻能楽堂の自主公演というスケジュール。
少し時間があったので、前から気になっていた江口君堂を訪ねることにした。
阪急京都線の上新庄駅から井高野車庫行きバスに乗り、江口君堂前で下車。住宅街を抜けてすぐ。
正面の入り口には「江口の里」の石碑、脇の入り口には「江口君堂普賢院」の石碑が建つ。江口君堂、正式には宝林山普賢院寂光寺と号する。江口君妙が草創したと伝えられている。現在は、日蓮宗のお寺となっている。
淀川から神崎川に分流する一帯は江口と呼ばれ、平安時代から近世にかけて西海と京を結ぶ水上交通の要所の宿場町として繁栄し、遊女の里として知られていた。
西行法師が天王寺へ詣でる途中、江口の里でにわか雨に会った。西行は、雨宿りのため江口君に宿を乞うが断られる。西行がそれをとがめて「世の中をいとふまでこそかたからめかりの宿りを惜しむきみかな(この世を厭い捨てるのは難しいでしょうけれど、かりそめの一夜の宿を貸すくらいはできそうなのに、あなたはそれを惜しむのですね)」と歌にして詠んだところ、江口君は「世をいとふ人としきけばかりの宿に心とむなと思ふばかりぞ(この世を厭うて出家なさったと人からうかがっているのに、かりそめの宿などに心をとどめなさいませぬようにと思っただけです)」とウイットに富んだ歌で応えた。
この『新古今和歌集』などに残されている歌の問答から、謡曲の「江口」が生まれた。
諸国一見の僧が江口の里に着いたところ、女があらわれて、江口君の旧跡に案内し、西行と遊女の歌の故事を語り、自分こそが江口の君の霊であるとなのって消える。僧が夜もすがら念仏を唱えていると、江口の君がありし日のままの姿で船に乗ってあらわれ、優美な舞を舞う。そして船は象となり、遊女は普賢菩薩となって西の空へと消えて行くというお話し。
本堂の前には、江口君と西行の供養塔が祀られている。
境内にはある名号碑の両側面には、江口君と西行の問答歌が刻まれている。
境内の歌碑ってどこにあるんだろうと、さんざん探して、帰りがけに気がついた。
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